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 次の記事を書こうと昔の写真を見ていたら新しいことに気づいた。下の写真はアメリカ・マイアミでのパフォーマンス。両手を使って書いている。左手は軸を握り、右手は直に穂を握っている。左手で筆全体の動きをリードしながら、同時に右手の指を使って穂の開きを微妙に調節している。書の場合、通常は筆圧で穂の動きをコントロールする。圧をかければ穂は開き、筆を浮かせば穂は閉じていく。だがこの時はそれだけでは足りなくて、無意識のうちに両手が出たのだと思う。
 いつからこういう書き方をしていたのか、ストックしてある写真をさかのぼってみたが、どうやら2006年のアヴィニョン・フェスティバルがはじまりだったようだ。この時の写真みると確かに両手を使って書いている。
 この書き方をするためには腰を深く落とさなければならない。手が穂まで届いてくれないからだ。

上:ウィンウッドアートコンプレックス (マイアミ・アメリカ)

下:アヴィニョンフェスティバル (アヴィニョン・フランス)
  
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中嶋宏行 URL http://www.sho-jp.com/


 下の作品は『水』。フランスのアルザス地方にある運河の美しい街、コルマールでの発表作品です。ほとばしる水の動きをストップモーションで切り取りたい。超速筆、その間わずか数秒。いや本当は、書歴40年プラス数秒と言いたいところです。
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「水」  35×35cm 2005年
雨は川へ流れ、海へと運ばれ、雲になり、
また雨となって大地に降り注ぎます。
今に安住せず、常に変化し続ける水。
かけがえのないものでありながら、存在を誇示しない水。
高きから低きに流れ、上下をつくらない水。
どんなかたちの器にも柔軟に収まろうとする水。
水は、私たちの生命を支えるだけでなく、
人としての生き方をも示唆してくれます。
中嶋宏行 URL http://www.sho-jp.com/


 今週からイタリア語の個人レッスンを受けることになった。今はいい教材がたくさんあって独習にはありがたいけれど、会話となるとやはりマンツーマンが一番だ。それに仕事がらみの会話となると、市販の日常会話集では間に合わない。

 外国語を学んでいると、日本語についてあらためて考えさせられることが多い。例えば日本語の場合、動詞が主語や目的語、目的補語、副詞などの後に置かれる。また、それが肯定文か否定文かは文末で決まる。だから一体何をしたいのか、”Yes”なのか”No”なのかがなかなかわからない。「あなたの意見に賛成します。」なのか、「あなたの意見に賛成しません。」なのか、最後まで聞かないとはっきりしないのだ。しかもしばしば主語を立てない。確かに主語はなくてもわかる。だが「私はあなたの意見に賛成します。」というと、「他の人はともかく、私は」というニュアンスが出てくる。ことさらに自分を強調したくない気持ちが働く時、話し手は主語を避けるのではないだろうか。私の知る限り、英語、中国語、フランス語、ドイツ語、イタリア語と比べてみて、これは日本語の持つ特徴の一つだと思う。

 こうした日本語の性能は、まわりの様子を見ながら自分の意見や立場を調整していくような場で効果的に発揮される。このような場では、強い自己主張よりも集団の中での協調性が美徳とされる。その集団の価値観やルールに従うこと、相手の立場を侵さないことが大切にされる。言外に意味を含ませ、暗黙のうちにそれを察し合えるような言語性能が発達していく。レストランで、他のメンバーの注文を聞いてから最後に「同じものでいいです。」と頼むシーンが目に浮かぶ。これは、誰が何をするのかがまず前面に出てくる他の言語とは一線を画している。

 長いものに巻かれ、皆が和して同じベクトルを目指すことで幸せを分かち合えるような時代は過去になりつつある。これまでは個人主義というと自分勝手という否定的な印象があったが、近頃は自己責任でグローバルに動く個人も増えてきた。言語も道具である以上、日本語もこうした環境変化にあわせて進化していくものなのだろうか。

 いや、言語は単なる道具ではなく、私たちの思考や発想を根底で支配しているのかもしれない。だとすると、日本語の特質が共同体的体質からの離脱にブレーキをかけていると考えるべきなのだろうか。

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 今日は、美しい満月の夜だ。

 書きためてあった候補作の中から一点の満月を選び出した。「月」の一字をモチーフにしたこの作品、サイズは80×70cm。筆は紙に一切触れていない。まず筆にたっぷりと滴るほどに淡墨を含ませ、その筆で宙に大きく弧を描く。すると筆の先端から墨が勢いよく飛散し、それが紙に落ちて墨跡となる。やがてその墨跡の外側には、にじみがゆっくりと広がっていく。

 じかに紙に書くように、自由自在というわけにはいかない。だから失敗も多い。どんなものが生まれるのか自分にも分からない。だから楽しい。


今はあまり使われなくなった太陰暦。

昔の人は、月の満ち欠けによってひと月を決めた。

月のかたちを見れば、今日が何日かがわかる。

新月があたらしい月のはじまりで1日。

三日月は三日頃。

上弦の月を経て、満月でちょうど15日。

満月を過ぎると、立待月(17日頃)、居待月(18日頃)、そして寝待月(20日頃)へ。

月の名にも、少しずつ遅れる月の出を待つ情感が込められている。

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 下の作品は『間』。前に紹介した『土』と同様、2000年にローマのSoligoギャラリーで発表した作品です。

 人間、時間、空間。「間」という漢字は、根幹的な概念を表す熟語に使われています。なにか一文字で日本を象徴するようなものはないかと考え、この漢字を選びました。絵画の余白、音楽の小休止、舞踊のひと呼吸。「間」は「無」とは違います。その瞬間、たとえそこに何も無くても、いや無いからこそ観る人のイマジネーションを喚起するもの、それが「間」です。

 また同じようなものを書けそうな作品と、二度と書けない作品があります。これは、後者の典型。墨の調子といい、線質といい、何度挑戦しても再現不能です。




「間」 35×35cm 1999年

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 この世から無くなってほしいもの、それは戦争と差別だ。戦争と差別の底流には、多様性を認めようとしない不寛容がある。自らを絶対視して自分と違うものを認めようとしない。異質なものとは敵対し、これを排除しようとする。これが数々の悲惨な歴史の温床になってきた。

 だが、今年になって勇気が湧くようないくつかの出来事があった。まずは1月にスペインで開かれた「文明の同盟」第一回フォーラム。「文明の同盟」とは、イラク戦争やマドリードの列車爆破テロを受けてはじめられた国連の一大プロジェクト。異なる文明・文化間の共存を促進する行動で、とりわけ西側世界とアラブ・イスラム世界の相互否定的な認識をただすことを目的としている。双方が敵対するのではなく、互いの異質を理解し共存していくための話し合いをはじめようというのだ。

 つづく2月には、オーストラリアのラッド首相が先住民のアボリジニに対してはじめて公式に謝罪したことがニュースになった。歴代政権が長く謝罪を拒んできたなかで、これは画期的な出来事といえる。オーストラリアでは、18世紀からイギリス人の入植が進んだが、その過程で多くのアボリジニが虐殺され、土地を奪われ、隔離されていった。かつては狩猟の獲物のように銃で撃たれさえしたという。1967年にアボリジニの市民権が認められるまで、彼らは動植物保護法の対象だったというから驚く。

 そして、昨夜観たマレーシアの現代演劇。マレーシアはマレー系、中華系、インド系をはじめ諸民族が集まった他民族国家。民族が多様なら言語も多様、宗教もイスラム教、キリスト教、ヒンズー教など様々だ。「民族」と「言語」と「宗教」という3つの掛け合わせで、マレーシアには何通りのアイデンティティが存在するのだろう。マレーシアで活動する複数の劇団が互いの枠を超えてひとつのプロジェクトを実現させた。演劇の世界では、異文化間のコラボレーションの前に言葉の壁が立ちふさがるが、新しい表現を求めるアーティストたちのエネルギーが見事にこの壁を越えた。

 そもそもアーティストは、異質なものから触発を受けてモチベーションにしていく。ピカソは、ある時自分が学んできた西洋美術の外側に未知の世界があることを知る。そしてアフリカの黒人がつくる彫刻のコレクターになり、そこから多大な影響を受けてキュビスムへと進んでいく。また、アフリカの音楽は北米に渡ってジャズを生み、南米のサンバはジャズと合流してボサノバへ。異文化交流そのものだ。

 アーティストは「人と違ってこそ」の世界に生きている。だからアーティストの活動には、多様性を認め交流を促進する力が本来的に備わっている。

 今世紀、人は民族や宗教、言語の違いを超えられるだろうか。多様性に寛容となり、互いに尊重し合えるだろうか。21世紀を寛容の時代とするため、アーティストがグローバルに活動する意義は大きい。

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 今日でブログをはじめてちょうど2週間。当初の予想を超えてたくさんの方々に見ていただいています。ありがとうございます。

 下の作品は『土』。2000年に、はじめて海外のギャラリーで個展を開いた時、はじめて売れたのがこの作品。ローマのSoligoギャラリーです。代金のイタリア リラは記念として大切に持っています。もっとも、ユーロに移行した今では使おうにも使えません。

「土」という漢字は象形文字で、地層の中から植物が芽吹いた姿を表しているといわれます。この頃はよく象形文字を書いていました。字源を踏まえた文字のデフォルメを試みはじめたのがこの時期。この手の作品を日本で発表すると、まず「これは書ですか?」という質問。次に「何という字ですか?」と解読がはじまるのが常でした。タイトルと作品を見比べて、「ああ、そうか」と納得するのが第一。

 当時、イタリア人がこれをひとつの抽象表現としてとらえていたのが新鮮で、いまでもその時の感動が原点になっています。




「土」 35×35cm 1999年

Soligoギャラリー URL http://www.studiosoligo.it/

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 いまイタリア語を独習している。「言葉など話せなくても作品がよければ物事は前へ進む」という人もいるが、決してそんなことはない。個展ともなればギャラリーとの細かい打ち合わせは必須だし、そもそも自分の作品を説明することすら出来ない。作品を前にただ黙って微笑んでいても何も進まない。勉強をはじめて2ヶ月が過ぎた。はじめは順調だったが、ここにきて頭の中でイタリア語と英語が喧嘩をはじめだした。先住者の英語が、既得の陣地を侵されまいと新参者に戦線を布告している感じだ。

 外国語を学ぶ上で大切なのは、『言葉はコミュニケーションの道具である』という認識だと思う。われわれ受験英語で育った世代は、このあたりまえの認識が意外と足りない。相手とコミュニケートしたいという気持ち、それに伝えたい情報。この二つさえあれば、単語を並べて身振り、手振りだけでもある程度は通じる。だが、往々にして文法上の間違いを恐れるあまり、相手を前にして萎縮してしまう。三人称単数のsを付け忘れたことを妙に後悔したりする。相手は間違いに目を光らせる試験官ではない。むしろ、一生懸命相手の言語を話そうとするこちらに好意の目を向けてくれたりする。

 注目したいのは、外国語を使うことによって母国語の桎梏から自由になれるということだ。母国語だけの世界にいては気づきにくい。しかし母国語のもつ特徴や性能によって、私たちはコミュニケーションの流儀はもとより、発想や思考の方法までいつも制約を受けている。

 日本語の場合、相手の所属や地位、自分との関係などを念頭に置いて、その場にふさわしい言葉が選択されていく。「俺」と「お前」、「私」と「あなた」など、日本語の人称代名詞は相手との関係性によって決まっていく。一方英語の場合、こうしたしがらみから離れて、ただちにIとYOUで対等な対話が成立したりする。だがその一方で、「よろしくお願いします。」と言っても日本語の文脈の中でのそれのように英語は機能してくれない。英語は婉曲なあいまいさを許さない。誰が、何をするのか、話し手に主語と述語を明確にさせようとする強制力が働く。

 言葉を使うということは、その言語が独自に持っている思考の世界に入って行くことだと思う。少し大げさな言い方をすれば、外国語を使って外国人とコミュニケートした時、はじめて私たちは国の外へ出たと言えるのかもしれない。


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昨日、帰り際に墨を落としておいた紙の切れ端。

今朝はすっかり乾いて、夜中に墨と水とがたわむれた跡が残っていた。

墨の調子を見るために書いた、ただのテストペーパー。

何の作為もない。でも、さりげなくておもしろい。

墨と水が出会うと魔物に変わる。にじみやたまりは変幻自在。

決して思い通りにはいかない。

だから飽きない。

我を出し過ぎてはいけない。

自分の仕事は半分まで、後の半分は素材本来の力にゆだねる。

そんな構えが出来たとき、墨と水はご褒美のようにいい仕事で応えてくれる。





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 今日の新聞記事より。

「40代の中年は人生で最も幸福度が低く、日本人では49.8歳が最低—。」

これは、英ウォリック大学と米ダートマス大学の共同研究結果で、実に世界80カ国、200万人以上を対象としたもの。この傾向は先進国から途上国までほとんど変わらず、社会・経済的地位、子どもや離婚経験の有無なども関係なかったという。研究者の一人であるオズワルド教授は、「明確な理由は分からない」としながらも、可能性として、人は中年時代に実現不可能な夢をあきらめる一方、高齢者は友人の死を目の当たりにして残りの年月に大きな価値を見出すことなどをあげている。その上で、「70歳まで生きれば、20歳と同じような幸福と精神的な安心を得ることが出来ると強調している。

 50歳頃になると、ひとは人生の半ばを過ぎた自分の軌跡を振り返り、この調子だとこの先せいぜいこの程度だろうと諦観してしまうのかもしれない。『「まだ」と思えば上り坂、「もう」と思えば下り坂』という言葉を聞いたことがある。

 桜は、歳を重ねても満開の花を咲かせる。たとえ老木であっても、咲く花まで古いわけではない。生きている限り、毎年春になれば、精一杯新しい花を咲かせる。

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 今日も雪。昨日仕上がった4点(前記事のABCD)と、1月に書いた数点を合わせ、壁に貼って見比べる。結局、この中からEを選ぶことにした。AとEは最後まで残ったが、並べてみるとEの画面には奥行があり、黒い描線にも力がある。Aの方は平板的。やはり昨日感じたとおり、やや書き過ぎているように思う。

 同じモチーフをたくさん書けば書くほどいいものが出来るわけではない。一枚書くと次はどうしても前の一枚にとらわれてしまう。とらわれて過ぎて細部にこだわったり、技巧が前へ出て来たりする。過度の細部へのこだわりは線の力を奪い、過剰な技巧は時として見るものを遠ざけてしまう。カラオケで、一人マイクを握ってこぶしをまわし悦に入っているが、周りはすっかりしらけている、そんな情景にも似ている。

 動機の鮮度が落ちて来た時点で、そろそろこのモチーフから手を引く。いまここを掘り続けても、もうあまり期待できないことを経験で知った。明日からまた別な場所を探して掘りはじめる。だがこの穴は印をつけ、次にまた掘る時の楽しみとして残しておく。こうしてモチベーションのレベルを保っていく。

 E




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 先週から、雪の日曜日を挟んで4点の制作にとりかかっている。

 まず、70×70cmのキャンバス地を直に床に敷いて固定する。日を変えながら下地にグレー、次にその上から黒、そして最後に赤を入れる。今日で最後の赤入れを終えた。この中で作品として残せるものがあるだろうか。

 現時点では、Aがいいかなと思う。BとCは、はじめから円やクロスを書こうと意識し過ぎてつまらなくしてしまった。Dはグレーに黒を加えた時点でいけそうかなと思ったが、最後に赤を入れるべきかずいぶん迷った。やはりやめておいた方がよかったのかもしれない。迷ったときはやめた方がいいことが多い。「過剰よりも不足をもってよしとすべし」だ。

 今回の4点は、どれも少し書き過ぎているような気がする。漢字を書く場合は文字の点画に依存するので、最後の画を書いたところで終わりだが、この場合は筆を置くタイミングを見極めるのが難しい。

 明日完全に乾いたら壁に貼り、あらためて距離を置いて眺めてみる。画面に奥行きと動きがあり、イメージを喚起してくるものがあれば、作品として残せるかもしれない。ひとつでも作品をすくいあげたい自分と、妥協を許したくない自分との葛藤がはじまる。


A   B 


C   D 


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